先天性ミオパチーの子供に、いつ病気のことを話したらいいと思いますか?

基本データ1 患者本人から見て
症状によって違いはあるが、がん告知などと違い、自分が他の子と違うということは認識できていることが多い。

基本データ2 問題の焦点
・病名を含め、ミオパチーの特徴・リスクをいつ伝えるか。
・「(努力しても)治らない」ということをいつ伝えるか。

補足
 ミオパチー患者さんなら「いつ病気のことを知りましたか?」又は「いつ知りたかったですか?」のように質問を置き換えてもらっても結構です。
 ミオパチーの子供をお持ちの親御さんなら「いつ伝えるつもりですか?」又は「いつ伝えましたか?」のように質問を置き換えてください。
 ミオパチーに無縁の方でも、一般的に病気のことを子供に知らせるのはどんな時期がいいのか、ご意見があれば是非ご参加ください!


みなさんのご意見は?
  ノリさん:小4で知ったことは幸運だった
  かっちゃんさん:即、告知
  sharaさん:「この時期がよい」という結論は導き出せず
  管理人おゆう:本人が疑問を感じていたら

ノリさんのご意見:小4で知ったことは幸運だった

正直、ちょっと捉え方が難しいお題だったので投稿が遅れました…。
おとなしくしている限り、見た目には「非常に痩せた子供」にしか映らなかった患者(=私)の目線で書かせてもらいます。

筋電図・筋生検の結果、小4に病気を知った者です。
私は「男の子」の立場として書きます。

おゆうさんも書かれていますが、病状が、見た目では分かりにくい程度ですんでいる場合、「病気のせいだから仕方がない」と思える事は、精神的な支えとなります。人への言い訳というより、自分への。

小4までどうだったかと振りかえると、確かに色々言われたり、やられたり、言い返したりした記憶はあります。でも言う方も言われる方もまだ幼く、その頃に病気を知っていたら、もっと良かったか?、と問われると何とも言えません。

男の子の場合、高学年に近づくと周りの子と筋力の差が著しくなります。出来ない事へのコンプレックスも増えていきますし、スポーツマンに「ときめき」出す女の子の目を気にしたりするようにも。

特に大事だと思うのは、同級生よりも、何気ない大人の一言。体育会系の教師などに「だらしないぞ、男なら頑張れ!」などと、軽い気持ちで励まされたりしたら、相当ヘコむと思います。

その意味では私が小4でとりあえず「自分の努力が足りない訳でもなさそうだ」と思えるようになったことは、時期的に鑑みても、非常に幸運だったと思っています。

(2006.3.11の掲示板より)

かっちゃんさんのご意見:即、告知

さてミオパークの新しいお題についてなんですが、このテーマは僕にとってもすごく捉え所が難しいです。
結論から言えば単純に「子供が理解できる年齢であれば即、教えてあげるべきでは…」という思いではあるんですよ。基本として。
ただ、もし診断がつき次第すぐに子供にミオパチーであることを告げた場合、逆に何が問題になるのかがわからない…。
例えば「ガン」などと違って一般にミオパチーの多くはすぐに生命に関わるような重篤な症状は見られないですよね。
だから自分がそうであることを知った時のショックというのもそう問題にはならないだろうと思ったりするんですが、それは僕が幼い頃から全く歩くことも出来ず、子供の目にも明らかに何らかの大きな病気を患っていることがはっきりしていたから言えることなのかも知れません。
患者の皆さんの中には子供の頃「自分は人より少し不器用なだけ」とか「ちょっと力が弱かったり走るのが遅いけど、それは個人差の範囲で…」と思われていた方も少なくないようです。
そういう方たちに対する“告知”がどんなデメリットを持つのか想像がつかないのです。
突き詰めれば「“それ”を知らなくても充分日常生活が営めて、自分でも特に疑問を持っていない子供にまで、すぐに告知が必要か?」ということでしょうか。
これについての議論はいわゆる“ダークゾーン”にいる方々にお任せして、僕のように最初から完全に“クロ”サイドにいる人間として意見を言わせていただくのなら、やはり「即、告知」でしょう。
僕の場合、子供の頃にはまだ「いずれ治る」という先生もいましたが、逆に「中学生くらいまでしか生きられない」という“死の宣告”を下した医者もいました。
今となってはどちらも誤診だったのでしょうが、小学生の時に受けた“死の宣告”には恐ろしさのあまり声も出せずに涙だけが流れた記憶があります。
そんな経験をした者としては“正しい告知”はむしろ“光”につながる気がするんです。
このテーマについてはこれが精一杯…なんとなくパワー不足な意見でゴメンナサイ(;^_^A。

(2006.3.17の掲示板より)

sharaさんのご意見:「この時期がよい」という結論は導き出せず

いろいろ考えたのですが、
はっきり「この時期がよいのでは?」という答え(結論?)が
導き出せませんでした。
ごめんなさい。

なので、自分の経験をもとに患者本人の視点でのお話と、
このお題について私たち夫婦(子供なし)で
話したことを参考程度に書きます

自分の場合、最初に大学病院に行ったのは今から
30年ほど前になります。(小2かな?)
前にも書いたと思いますが、このころの時代背景として、
「ミオパチーについて」は今ほどわかってはおりませんでした。
たぶん、初期症状として一番近かったのは、
筋ジスだったと思います。
現に、私の両親もはじめは筋ジスを考えていたようですし、
実際に診断がつけれれたときもその病院では初めての患者でした。

ですので、親も先生から言われることがすべてで
独自でいろいろな情報を持つことは不可能だったと推測できます。
(現代のようにネットなどはありませんので。。。)
このような背景はよかった面と悪かった面の2面性が
あると思います。

私の場合、親が先生から話をされるときは
いつもその傍らに同席していました。
親だけ診察室によばれて。。。といったことは
私の記憶の限りではなかったように思います。
先生も、親に説明したあと必ず、平易な言葉で
自分にも話をしてくれていました。

そして、この「ミオパチー」に関しては本人と親とが
同じ歩幅で歩んできたように思います。
だから、私にはあらたまって親から説明された。。。
という記憶はありません。
特殊な例かもしれませんね。。。

たとえば自分が自分の身体について
「なんで、自分はこうなのか?」という疑問があったとしても、
それを親にぶつけてみたところで、
親も先生から説明された以上のことは正直なところわからないでしょうし、
そうなると、本人と一緒に考えるしかしてやれないわけです。

なので、様々な場面で親とはいろいろな話をよくしました。
同時に、どうにもならない現実を憂うことよりも、
人間としてどう生きるべきかという人生勉強が
その話のなかでしっかりと身についていったように思います。

ですから、自分が病気について知った時期。。。ということになれば、
診断がついたそのとき(小3)で知ったということになります。

親からの説明で理解するのではなく、
親とともに自分の身体のことを自然と理解できる過程を歩めたことは
よかったことだと思えます。


しかし、一昔前と今では状況が違います。
その最たるところは、少ないながらもきちんとした
情報を簡単に手に入れられることかもしれません。
(これははこのみおぱちっくをはじめ、ミオパチー患者のみなさんの
 陰の努力や医学の発達のたまものといえると思いますが。。。)

私も社会人となって、仕事柄(医療技術者)自分でいろいろ情報を集めました。
すると、昔はこんなこと言われなかったな、とか知らなかったことが
いろいろありました。
(筋肉痛になるほどの運動がいけないとか、遺伝性があるとか、
 呼吸器に問題が生じる場合があるetc...)

それを知ったとき、結構いままで危ない道を歩んできたと思ったのも
事実です。

結婚をして妻に言われたことがあります。

「3年一緒にすごしてみて、初めて何がつらいのかよくわかってきたように思う

「あなたは、病気だという自覚が薄い」

この言葉はミオパチーによる障害の中途半端さ(自分の場合)や
自分の歩んできたこれまでの過程に起因する弊害を端的に表していると思いまし
た。

と同時に、もし自分たちに子供がいて、その子がミオパチーだったら。。。
と仮定したら、

 「わかった時点で、子供がいくつであろうができる限りの説明は
  すると思う」

と、妻は言いました。

そうすることによって、何を注意しなければいけないか、ということを
子供に前もって自覚させたいからだそうです。
きっと、私を見てそう思ったのだと解釈しました。

「これ」という決定的な場面がないまま手探りですごしてしまった私は
健常者の妻からみると

 「病気であるという自覚が薄い」

と見えるみたいです。

事実、自分でもかなり自分の身体の状況は理解しているつもりでしたが、
今回の怪我で「自分はこんなにも人(健常者)とはちがうのか。。。」
ということを改めて思い知らされました。

もちろん私も「即、告知」ということになんの依存もありません。

ただ、それが子供にとって絶対的に必要か?
また、言うのであればそれはいつがいいのか?
と問われると、なんともいえなくなってしまうのが本音のところです。

病気そのものに対しては、「絶対にしてはいけないこと」という要点だけを
きちんと子供に理解をさせることが必要であり、
メンタルな部分で言えば、おゆうさんをはじめ皆さんと同じように、
「できないのは自分の努力が足りないせいではない」と思えることは
少なくても「自分への救い」になるように思います。

ただ、自分に限って言えば心の奥底にはけっこう
どろどろした感情はくすぶっていたように思います。
たとえ、すべてを理解していて知っていても。。。です。

もっと言ってしまえば、自分はある時期、
他人に自分の病気のことを説明するのがいやな時期がありました。

「自分は筋肉の病気で、ひとよりも発育が。。。。」とか、
「筋肉組織の中に発育を阻害する物質があって。。。」etc。。。

たぶん、「見た目が普通」ということに起因していると思いますが、
言えば言うほどなんだか一生懸命、言い訳しているような気分になることが
あったのです。

これは、いわゆる「グレー・ゾーン」特有の感情かもしれませんね。

ミオパチーは症状も様々で、私のように幼少期は
ただ、「ちょっと痩せていて、運動があまりできない子」から、
早くから人工呼吸器をつけなければならない方、
気管切開を行って吸引が必要な方まで様々です。
それぞれ、置かれた環境や立場も違います。

また、子供それぞれの性格的特徴や個性の違いもあります。
ですので、一概に「いつがいい」という意見がむずかしいのかもしれません。

お題から逸れてしまいましたが、
今回のお題に関して自分が今、書けるのはこんなところです。

ぜんぜん、お題に対しての意見になっていないように思いますが(f^^)
一例として読んでもらえれば。。。

(2005.3.25付のメールより)

管理人おゆうの意見:本人が疑問を感じていたら

 私が病気のことを聞かされたのは小学校に入学するときです。(と言っても病名がわかったのが5歳のときなので、本来ならもっと早くてよかったのかもしれません。)小学生になるにあたり、それ以外の様々な注意事項とともに伝えられたと記憶しています。この時点では詳しい病名などは聞かされず、症状についてだけわかるように説明してもらっていました。ただし、保育園で2歳から集団生活をしていたので、それよりずっと前から他の子と違うということは自覚していました。
 小学生の時のお友達は単刀直入に「どうして走れないの?」「どうしてジャンプできないの?」等と聞いてきました。私は母から聞かされていた通りに、「生まれつきの病気で、みんなが筋肉を10個持ってるとすると、私は9個ぐらいしかないんだって」と答えていました。小学生の私にとっては「自分が人と同じようにできないのは病気のせいで、自分の努力が足りないせいではないと納得できること」と「それをお友達にも説明できること」が大事だったのです。
 中学生になると、自分から話さない限り、周りの人は気を遣って病気のことを聞いてこなくなりました。クラス替えの度に、友人、担任、体育の先生等に自分で説明する必要があったので、親と同程度には病気についてきちんと理解していました。

 私は、小さいうちでも本人が疑問を感じていることに気付いたら、きちんと説明してあげた方がいいのではないかと思います。人と同じように出来ないことについて、「病気のせいだから仕方がない」と言ってあげないと、自分を責めてしまうことになりかねないからです。

(2006.2.22)

  みおぱちっく順路