怪我2〜右膝脱臼&骨折〜

 二度目の怪我こそ、大怪我でした。

 それは高校一年の夏休み、クラブの合宿中に起きました。「合宿中に怪我をした」と言うと、「何のスポーツをやってたの?」とよく聞かれますが、科学部です。
 夕食の為、食堂へ行った時のこと。その日は湿度が高く、Pタイル張りの床はかなり湿っていました。スリッパを履いていた私は滑ってしまったのです。右足だけが前方へ行ってしまった時、そのまま転んでしまえば大したことにはならなかったのかもしれません。しかし人間、無意識に踏ん張ろうとしてしまうもので、これが裏目に出て、変な風に右膝に力が加わってしまったようです。ゴリッという音とともに膝に激痛が走り、そのまま床に倒れこむ形となりました。右膝はひどい痛みで、もう1ミリだって動かせない状況になってしまったのです。
 すぐに救急車が呼ばれ、担架で車内まで運ばれましたが、私の痛がりように隊員は呆れ顔。とは言え、本人にとっては地獄の苦しみです。宿舎は山荘だったので、病院までの道のりは山道です。揺れの一つ一つが足に響いて、痛かったこと、痛かったこと。涙はかってに出てくるし、脂汗はかくしで、もう大変でした。経験したことのない痛みに、これは手術の可能性もあると思った私は、付き添ってくださった先生に、麻酔をする際には主治医に連絡をとってほしいと頼みました。先生はそれを聞いて、私がそれまでのパニック状態から落ち着きを取り戻したのだと判断したようでした。
 病院に着くと、まずレントゲン室に連れていかれました。写真を撮るのに脚を伸ばすように言われましたが、右足はくの字に曲がったまま、もはや痛くて動かすことなどできませんでした。「無理です」と必死に訴えているにも関わらず、担当した医師はやれやれという態度で私の膝を無理矢理伸ばし始めました。泣きながら「やめて」と繰り返しても無視です。次の瞬間、パキンと音がして脚がまっすぐに伸び、痛みはスーッと引きました。伸ばした脚を上からと横から撮影して診察室へ。そこで言われた言葉は、「どこも悪くない」でした。和らいだとは言ってもまだ相当な痛みが残っていたし、どこも悪くないはずはないと言いましたが、レントゲンで見る限り何ともないと言うし、付き添いの先生もほっとした様子だったので、それ以上は食い下がらず、痛み止めの注射を打ってもらって、松葉杖で宿へ戻りました。帰りはタクシーでしたが、行きとは痛み方が嘘のように違っていたので、本当にもう治ったのかもしれないと思えたほどでした。とは言うものの、宿に着いてすぐ家に電話をさせてもらったのですが、母相手に先生との区別がつかず敬語で状況を説明するなど、動揺は隠せませんでした。

 翌日は友人達が歩けない私を椅子ごと移動させてくれたりと、本当によく助けてくれました。先生にまでおぶらせてしまいました。両親が車で迎えに来たのはその日の夜で、さらにその翌朝、近所の整形外科に行くことになりました。
 そこではレントゲンを3枚撮りました。3枚目は膝を体育座りの状態で前から撮るもので、実はこの3枚目が重要だったのです。レントゲンを見た医師は、開口一番、「すぐ手術ですね」と言いました。ショックよりも先に、やっぱりねという納得感がありました。あれだけの痛みで、なんでもないはずはないのです。怪我の説明は次の通りでした:
 まず、滑った時の最初の「ゴリッ」は膝が脱臼した音。普通、脱臼は激痛を伴うそうです。次にレントゲン室での「パキン」は外れた膝が元に戻った衝撃で、半月盤(お皿)にひびが入った音。脱臼自体は不完全ながら元に戻った為、痛みが引いたのだそうです。そして、この一連の怪我により、膝はぶくぶくになるほど内出血していました。
 ・・・明らかに医療ミスです。救急とは言え、ベテラン医師だったのに。いまさら言っても仕方ありませんが、訴えるべきでした。
 即日入院することになり、膝専門の敏腕医師が手術を担当してくれることになりました。手術の日が決まってからは、検査をしたり、水(溜まった血)を抜いたりと、準備が着々と進んでいきました。ところが、突然手術が中止になったのです。手術中の麻酔の件で、ミオパチーの主治医と話し合った結果、執刀医が手術を嫌がったようでした。手術をすれば膝の両側に大きな縫い跡が残ることになります。ミオパチーでよかったと思えた、数少ない瞬間でした。

 手術は免れたものの、入院生活は長引き、1ヶ月に及びました。その間松葉杖を使用するので、両腕と左足の筋肉を鍛えなくてはなりません。松葉杖を使う患者が一番最初にするリハビリは、怪我した足を地面に着かずに、うまく杖を使って床から立ち上がる練習だそうです。が、私にそんなことが出来るはずもないので、いつもベッドを使わせてもらっていました。リハビリ用のおもりも0.5〜1kg(通常は2〜5kg)のものを使用しました。怪我をしていなくてもできないような動きを強制されて、わかってもらえず困ったこともありましたが、なんとか1ヶ月間耐えました。
 困ったのはリハビリだけではありません。片足は地面に着けず、両手に松葉杖の状態ですから、当然食事はベッドまで運んできてもらえるものだと思っていたら、看護婦さんに「皆さん、自分で持っていきますよ」と冷たく言い放たれてしまったのです。確かに「皆さん」は片方の手に松葉杖、もう片方の手にトレーを持って、ケンケンして運んでいます。私は怪我をしていなくても片足跳びなどできないし、トレーを片手で持つというのも重くて不可能です。なんといってもミオパチーですから。結局、頼んだらしぶしぶ運んでくれましたが、肩身の狭い思いをしました。ちょっと不親切ですよね?
 余談ではありますが、入院中は、リハビリのとき以外ずっとベッドの上で暇を持て余すことになりがちですが、この時は夏休み中。課題がどっさりあったので、そうはなりませんでした。「夏休みの宿題」が余裕をもって終わったのはこの年だけだったかもしれません。回診の度に、「学生にはいつも勉強しなさいと言っているけど、もう勉強はやめなさいと言うのは君が初めてだよ」と言われてしまいました。久しぶりに集中して読書もできました。その上、近所に住む友人が毎日お見舞いに来てくれたので、本当に助かりました。

 さて、右脚全体を固定していた装具を外す段階になると、今度は膝を曲げる練習が始まりました。約1ヶ月間伸ばしきりだった膝は、曲げようとしても痛くて曲がらなくなってしまっているのです。機械を使って少しずつ日にちをかけて曲げて行くのですが、関節はまるで錆び付いた蝶つがいのようにきしんでいるような感じです。それからしばらくして、ようやく右足を地面に着く許可が下り、退院が決まりました。実は私には入院中ずっと心掛けていたことがありました。それは、歩いてもよいと言われたときには、最後に歩いたときのように歩こうということでした。普通に歩いていた時の感覚を忘れないようにしようと思っていたのです。私の久しぶりの歩行は問題ないと医師に褒められました。この時聞いた話ですが、長い間歩いていないと、歩き方を忘れてしまったり、怪我した足をかばってバランスの悪い歩き方になってしまったりするらしいのです。私の1ヶ月間のイメージトレーニングは正しかったようです。(でもそういうことは最初から言っておいてほしいですね。)ただし、実際には関節がうまく曲がらないし、筋力も落ちているので全く同じように歩くということはできませんでした。

 退院後は松葉杖を卒業し、装具は膝が曲げられるようなものに代わりました。時をほぼ同じくして、夏休みが終わり、新学期の始まりです。普通なら家から学校まで1時間程度なのですが、ゆっくりしか歩けないので、2時間以上かけての通学が1ヶ月間ぐらい続きました。さらに最悪なことには、学校の最寄駅から学校までというのが通常20分ぐらい(ミオパチーでなければ15分ぐらい)なのですが、学校は丘の上にあるため、途中には240段の石段(手摺りなし!)と坂を含んでいるのです。それでも雨の日以外はタクシーを使わず、なんとか頑張り抜きました。時間のかかる通学に毎日付き合ってくれる友人がいたからできたのだと思います。ただ、校舎内では生徒は使用禁止のエレベーターを使わせてもらえたので、普段よりも楽だなぁと思ってしまいました。
 さらに2ヶ月ほどが経ち、「完治」という診断結果がでました。ところが、完治しても以前のように楽に床から立ち上がることができません。(「楽に」と言っても、健常者とは大違いです。)「怪我だけはしないように」と言われ続けた理由はここにあります。一度落ちた筋力はミオパチーの場合、取り戻すのが難しく、結局今でも怪我をする前のような立ち上がり方はできません。

 怪我をしていた約3ヶ月間の間に得たものもあります。歩幅が狭く、足も思うように上がらない状態で街を歩くと、わずかな段差や隙間に神経を使わなければならなくなります。この隙間に足を取られる老人はいないのだろうか、この段差を車椅子の人はどうしているのだろうか、と考えるようになったのです。元々段差などには苦労していたわけですが、その苦労をなかなか健常者にわかってもらえないように、私自身、自分よりも弱い人たちの苦労をわかってはいなかったことに気付いたのです。街は危険な罠だらけ。この怪我がきっかけで、バリアフリーについて深く考える機会を得たのでした。
 ちなみに、普段と違って明らかな怪我人となったので、電車では席を譲ってもらえたり、堂々と優先席に座れるようになるのでは?と期待しましたが、装具が制服のスカートで隠れてしまったため、やっぱりだめでした。この期待は次回の怪我に持越しです。
(2006.12.22)

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